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ぼちぼち
by eriko621
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神戸をおもう
早いものです、阪神大震災が起こったのは11年前にもなります。
忘れないようにしたいです。






その頃、私たち一家は震度7区域と言われている場所に住んでいました。あの古いマンション、よく倒壊しなかったものです。(確か半壊でした)

その頃、私はまだ小学6年生、生意気なガキ時代。昔から肝が据わっているというかナンというか、地震が起きた直後、目が覚めたものの、「今のは夢かな・・・?」と寝ぼけていました。
だって神戸で地震あるなんて誰も思っていなかったですもん。

親は別の寝室で必死に妹をかばっていたようです(上から仏壇が降ってきたらしい)。
一番下の妹、まだその時は赤ちゃんでした。だから妹はその当時のこと全然覚えていません。今はもう11歳になります。

地震が起こった日も、全然実感がなかったです。子供だからってのもあるし、周辺はさほど大きな被害が無かったから、というのもあります。
ただ、下の方(海に近い地域)を見ると、煙が上がり、大変な騒動になっているのは感じられました。それでもまだ現実味が自分の中にはなくて、「今日は学校あるかなぁ」と意味不明なことを言っていました。後になればなるほど被害の状況が明らかになり、結局学校は避難所になったりして、1ヶ月ほど休みになりました。

電気はその日のうちに復旧しました。ただ水やガスはだいぶ後に復旧。それまで水汲みに行ったり、石油ストーブ、電気鍋やらでご飯を作っていました。
家でお風呂に入れないから、近くのお風呂屋さんは長蛇の列。私たちも遠出して有馬まで行ってお風呂に入りました。

家の割と近くに山口組組長の家があったのですが、彼ら、水汲みに必要なタンク、卓上ガスコンロ、インスタント食品やらを無料で配っていました。ここぞとばかりに近隣住民へ奉仕してアピールする様子、子供心にずるい奴らだ、なんて思いました。でもこれで助かっていた人がいるのも事実なんですよね。

そして我が家、私の中学入学を期に神戸市の西にあるニュータウンへ引越しする予定だったのです。物件も契約を済ませていたので、そこにわざわざお風呂に入りに行ったり、買出しに出かけたこともあります。
同じ神戸でも海側と山側では被害の状況が大きく違っていました。このニュータウンは、いつもと変わらない様子で、同じ神戸市とは思えませんでした。

何とか学校も再開したものの、給食は簡易給食でした。パン、チーズ、りんご、パックの牛乳なんかが配られたようにおもいます。その後受けた授業や学校でのことは、バタバタしていてあまり記憶がありません。

中学入学に伴って、西区のニュータウンへ引越し。中学校ではだいたい同じ小学校から上がってきた子ばかりだったので、新参者の私は「仮設の子?」とよく聞かれました。
そうです、この西区には仮設住宅がたくさん作られ、震災で家を失った家族がたくさんやってきていました。本当ならこんな慣れない土地に来ていないはずだった人たち。それなのに「仮設の子?」と聞くあたり、すごく無神経だなぁと思い、ムカッとしたものです。。だったら何だって言うんだよ。
このあたりでは地震の被害が全くと言っていいほど無かったので、子供らは「また地震起こったら学校休みになるのになぁ~」とほざいてる奴がいました。私はそれを聞いてまたイライラしていました。子供って残酷で無神経。


私の震災の記憶が風化しつつあるように、世間でも忘れられつつありますよね。忘れないでおく、というのは案外難しいことなのかもしれません。


忘れないでいたい。ただそれだけです。
by eriko621 | 2006-01-17 09:42 | 日本の日常
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